
ドイツにてシングルママ子育てを卒業したSunnyです。
前回の記事で日本とドイツでの体験談を書きましたが、
「親からの言葉」のテーマは背景にある家庭環境や
親自身の幼少期の家庭環境も大いに影響してきます。
20年子供を育ててきましたが、年数の経過とともに記憶が曖昧になってくるので
今回は自分の幼少期を振り返りながら書いておこうと思います。
はじめに
右も左もほとんど分からず親になって、手探りでしてきた中で気がついたのは、
無意識的に、良くも悪くも自分の幼少期の経験が元になって子育てしてしまうこと、でした。
(それしか経験として持っていないため)
私の場合は、これからお話しますが、家庭環境があまり良くなかったせいか
初めてママになってからの数年間は、荒削りでした。
正直、紆余曲折しながらも、ひたすら自分自身と向き合うと同時に
良き親子関係を築けるよう、経験として持っていない中で
新しく挑戦していくような感覚でした。
でも、それは過去の暗い経験が反面教師となって大いに役立ちました。
父は発達障害(注意欠陥)
私の場合は、6人家族のどちらかという大家族の中で育ち、
父がADHDの注意欠陥が強かったので、家の中は大抵片付いていませんでした。
おまけに、父は大事な物(家や車の鍵、免許証や財布など)は何度も何度も紛失するし(現在もです)
コインのお金は、やたらズボンやジャケットのポケットにじゃらじゃら入っているし
計画性はなく、時間管理がとても難しい人でした。
父は、自営業をずっとしていましたが(むしろ自営業でなければ社会生活は困難だったと思う)
家族はしょっちゅう振り回され、母は理解不能な父の行動に
毎日怒ってばかりいました。(当時は大人の”発達障害”という概念はなかったと思う)
(ちなみに今でも発達障害と診断されていませんが、当時の謎の行動全てが、ADHDの注意欠陥と酷似しています)
この他にも、
・何度言ってもポケットにティッシュを入れたまま洗濯機を回してしまう
(これ悲惨なことになりますよね)
・洗濯後は必ずコインのお金が数枚洗濯機の中に見つかる
・物に執着する(何枚も何個も同じ物を持ちたがる)
・物を捨てられないし、なんなら拾ってくる
・大事なことを計画的に進められない(確定申告など)
・衝動的に物を購入してしまう
・人の話を聞いていない
・他の人の感情を考察することができない
・図書館やレンタルビデオの返却期間を忘れる
(よって延滞料金、紛失料金を請求されることも多々あり)
・返却期間を忘れるのに、毎回最大数で借りてくる
注意欠陥が強い方を身近にお持ちの方なら、想像できるのではないでしょうか。
私は、30代半ばになるまで父の不可解な行動が、全く理解できず
また同じような症状を持つ家族を持っている友人が周りに皆無だったので
謎が解けるまでには大分時間がかかりました。
子供時代の父からの言葉
そのような家庭環境の中、両親はどちらもフルタイムで働いており(父の場合は特殊でしたが)、
子ども一人一人を時間をかけて見守る、という余裕はなかったと思います。
ただ、父は他人の子どもと比較して自分の子どもを下げて評価することが多かったため、
思春期には、私たち兄妹全員が父に対して怒りを感じるようになりました。
それはまるで、荒れ狂った感情の荒野で過ごすような感じでした。
小学生、中学生の頃によく耳にしていたのは
「お前はダメだなぁ。◯◯ちゃん(君)なんか、すごいじゃないか」
の一言を筆頭に、どこがどうすごいのかをしれっと説明され、比較されるわけです。
また、兄たちなら兄同士の比較、私と妹なら私たち2人の比較も多かったです。
で、大抵評価が低い方に、わざわざどこがどうダメなのかを晩酌しながら垂れ流すわけです。
そんな父の言葉に、母は荒れ狂ったように毎回反撃してくれていたのを思い出します。
子供時代の母からの言葉
当時の母の言葉で一番印象的だったのは、「どの子どもも頑張っている!」という言葉でした。
父と母が修羅場になることが多かった小学校高学年の時期に
私は空気を読んで父母の喧嘩の横で、後々母からの怒りのとばっちりが来ないように、
溜まっていた乾いた洗濯物の山を黙々と畳んで、家の手伝いをしていました。
なので、子どもたちに対する父の不平等なコメントに対して
母が怒り心頭で言い返していた言葉を聞くことが多かったのです。
その中には、
「子どもはみんな平等」や
「子どもにはそれぞれの良さがある」など
当時の私には、恐怖で慄く中、心に残る言葉もありました。
コミュニケーションが得意な方ではない母でしたが、
信念をしっかりと持った人で愛情深い人でもありました。
子育ては自分の幼少期の追体験
なぜこうして幼少期の家庭環境を振り返ったかというと、
子育てそのものが、自分が幼少期から大人になるまでに経験したことの追体験になるからです。
これに気づいたのが、娘が2-3歳頃のことでした。
国際離婚が成立して日本で娘と2人暮らしをしておりましたが、
私は感情的にも人としても未熟なママでした。
親になると、それまで自分のために自分のコントロール下で使えていた時間が、
1分1秒を争うほどに、子供中心に流れていくことに
ストレスを感じることが多かった時期でした。
それに加えて、イヤイヤ期も始まり
ものごとが上手くいかないことが多くなる頃で
感情的に怒っている時に、ふと自分の中に
幼少期に怒鳴り散らしていた母を見た感覚があったのです。
自分のキャパシティを超えると、制御不能になって感情が爆発してしまう。
これはかつての母も同じだったのではないかと思いました。
そして、そのとばっちりを受ける子供だった私は、
それが理解できずに黙って恐怖に震えたのを思い出しました。
負の連鎖を自分の代で止めようと決意
怒り心頭の自分と過去の母が重なって見え、客観的に当時の母の気持ちが理解できた時、
目の前にいる小さな娘が大声で泣き出し、現実に戻りました。
大声で泣きながら、娘は
「どうしてそんなに怒るの・・?」
「怖いからやめて」
と、はっきりと伝えてきました。
その時、ハッとしたのです。
自分の娘の発する言葉は、かつての私が同じように感じていた言葉だったのです。
この時、この子は感情を言葉で伝えることができる。(しかも日本語だった)
かつての私も、この感情を母に伝えることができていたら・・・と思いました。
(すでに私が妊娠中に母は他界していました)
そして、泣きじゃくる娘をぎゅっと抱きしめ
「ごめんね。ママはあなたが嫌いだから怒ったんじゃないの」
「ごめん、ごめん」と、ひたすら謝りました。
当時はあまりにも過去の母と幼少期の自分の感情を両方味わったので
どうしていいかわからなかったのですが、
娘のはっきりとした言葉のおかげで、救われました。
その日を境に、負の連鎖は自分の代で止めなければという
強い決意に変わりました。
それから数年は、キャパシティオーバーになると
感情的になることはありましたが、その都度
娘に誤解を残さないように、すぐにぎゅっと抱きしめて
謝るようになりました。
多分これが、当時の私にできる最大の懺悔だったと思います。
最後に
幼少期の家庭環境のことは、今振り返っても強烈に思い出せます。
ただ、兄妹によって物の見方が違うので、私はどちらかというと自分が感じた感情を描きました。
当時、モヤモヤとしていた恐怖感が、もう耐えきれないと思った出来事がありました。
それは、小学校6年生の最後の春休みなのですが
それまで大きい存在だった母が、夫婦喧嘩の後に涙を流していたのを目撃したことがきっかけでした。
私の中で、この異常な家庭環境下で渦巻く、何とも言えない感情を抱え込むことができず、
ほぼ逃げ場を求めるように、その日から毎日感情をノートに書き続けていました。
書くことで自分自身に向き合い、家庭という荒波の中を非行に走ることなく、
生き延びることができたと思っています。
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