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なぜドイツへ再移住したの?国際離婚後、迷いの末に選んだドイツ再移住について

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なぜドイツへ再移住したの?国際離婚後、迷いの末に選んだドイツ再移住について

シングルマザーでドイツに移住した2012年以降、ドイツで12年間子育てをしてきたSunnyです。

昨年、晴れて娘が学校を卒業をし、自立し家を出たので、少しずつ過去12年間を振り返っていこうと思っています。

今回は、移住当初よく周りの方々に質問されていた、「なぜ離婚後ドイツへ移住したの?」

ドイツと日本の国際別居は必然だった

プロフィールページでもサクッと書いてはいるのですが、私の場合、日本とドイツの国際別居後の国際離婚になりました。

この辺り、国際結婚をされている方なら国際条約の「ハーグ条約」が思い浮かぶかと思いますが、私たちが国際別居した2008年当時は日本はまだハーグ条約に加盟していませんでした。(日本が加盟したのは2014年)

また、当時私は一時帰国のつもりで日本へ3ヶ月帰国したものの、それまでの薄暗い寒い冬のドイツでのワンオペ育児のメンタルの鬱々さが劇的に改善されたこともあり、そのまま日本に滞在し続け事実上の別居に至りました。その後国際離婚が成立しました。

私たちの場合、日本で婚姻届を提出しているので、日本での離婚届が先になりました。離婚後の養育費の条件だけ書面で作り、サインをしてもらって手短に済んだことを覚えています。後から、この養育費に関しての書面については、第三者機関の介入があれば法的効力があることを知り、あまり意味がなかったことを知ることになるのですが。

太陽が全く出ないドイツの村の薄暗い寒い冬から、太陽が毎日空にある暖かい冬の日本に帰ってきた時、生き返ったような気持ちになったのを覚えています。例え実家がゴミ屋敷だったとしても、これから自分が向き合い続けることになる「家族」というテーマについて、初めての子育てをしながら、根本から見つめ直そうと思いました。自分の代で「負の連鎖」を断ち切り、娘の代には持ち越さない、と決めたのです。

日本での5年間のシングルマザー生活

実家がゴミ屋敷だったとしても、私の部屋だけはなんとか親子で安心して寝泊まりできる状態ではありました。

当時娘は2歳になる頃で、まだ目が離せない時期。毎日、朝食の後に公園に散歩がてら遊びに行き、その後娘が昼寝中に毎日実家の掃除をしていました。毎日毎日片付けても片付けてもゴミ袋が山のように出て、それを小さな軽自動車に乗せて、ゴミ処理センターに持っていくのが、私の日課でした。年間1トンは処分したと思います。

一年目は、実家のゴミ屋敷を片付けながら、同時にシュタイナー教育関連の育児サークルを見つけて、友達作りに積極的でした。

感性の合うママさんたちばかりだったので、毎回楽しかったのを覚えています。こどもたち同士もすぐに仲良くなり、娘は最初の一年であっという間に日本語を話せるようになりました。

この1年間に友達ができたこともあり、ドイツに戻るか日本で仕事をするかで悩みに悩み、一度は元夫が来日して話し合いをしたこともありました。しかし、結局ドイツに戻ったところで彼との未来を見ることができず、国際離婚を選択します。

ゴミ屋敷の85%ほどが片付いた頃、父の確定申告処理に追われつつ、来年度からの娘の保育園探しに奔走しました。思いつく限りのあらゆるリサーチをし、一時保育も利用し、顔と名前を覚えてもらい、最終的に家族ぐるみで親しかった歴史の長い保育園の入園が叶いました。

そうして、二年目には晴れてパートタイムの仕事につき、三年目にはフルタイムワーカーとして働き始め、娘と二人暮らしができるようになり、四年目、五年目と続きます。

保育園生活は、親子共に「楽しい」の一言でした。日本の保育園では、四季折々のイベントや食材が豊かで、飽きることがありませんでした。

ベテランの信頼できる先生方ばかりで、母を亡くしている私にとって、母と同世代の先生方にはよく子育ての相談をさせてもらいました。

連絡ノートも、子育て日記のように成長や感情を毎日書き記していたので、「読むのが楽しみ」と先生に言われたこともありました。

家庭内でのドイツ文化は、簡単なドイツ語あいさつを朝と夜に使い、お風呂の中で数字をドイツ語で言うことくらい。

たまにドイツの祖父母からギフトが届き、たまにオンライン通話でパパと話す(会話が成り立たないので、私が説明)ことをしていました。

ドイツ再移住のきっかけとなった出来事

日本生活が五年目に入る頃、東日本大震災が発生しました。私たちの住む場所から200kmほど離れていました。

娘が保育園を卒園する頃で、卒園の準備と翌月からの小学校入学準備に忙しかったのを覚えています。

毎日毎日TVとネットで情報収集をし、これからの未来について、子育てについて真剣に考えた日々でした。

その頃、放射線の体内影響について散々調べまくっていて、今後どうしたものかと情報を集めていました。

同時に、チェルノブイリの原発事故を経験していたドイツの祖父母や家族が、日本の惨状を鑑みて、猛烈な呼び寄せコールをし始めました。

翌月からの小学校入学を控え、全てを投げ打ってドイツへ移住する決断をすることはできず、2度断りました。

その後、元夫からの連絡が突然途絶えます。

確か毎月オンライン通話をしていたので、1-2ヶ月ならまだしも3-4ヶ月連絡が取れなくなると、生きてるのかさえわからない状況でした。

今まで定期的にギフトを送ってきてくれていたドイツの祖父母に手紙を出すと、彼のことは話題に触れないハガキが届いたりしていました。そこで恐らく生きてはいることを想定し、結局自分のメールボックスを探しまくって、彼の姪っ子のメールアドレスが見つかったので、彼女にメールを送りました。

そうして、半年後連絡が取れます。生きてはいましたが、彼は日本での娘の未来を考えると、もう死んだも同然のようになっていました。

私の方は、当時、日本の公立小学校での生活に不満はなかったのですが、宿題の多さと、自分の理想とする育児とのギャップ、仕事で疲れる毎日の繰り返しになんとも言えない不安感に襲われていました。

どうにかして国際的な環境で娘を育てたい。彼女が思春期になった時にぶち当たるであろう、アイデンティティクライシスに、ドイツとの関係性がゼロに近いままではいけない、と思っていました。そして、もしまた日本に大きい地震が来て、不幸にも私が死ぬことになれば、娘はドイツの家族に託したい・・。

そうして、決断します。「娘のために」今、腹をくくろうと。

そうして、2012年ドイツへの再移住を決意します。

注意が必要な先輩ママさんの特徴

日本での5年間のシングルマザー生活もまた、本当にたくさんのことがありました。

私の場合は、20代前半という若くして出産しているので、周りのママ友さんや、当時の職場の子育て先輩ママさんたちは、大体10歳近く年上の方が多かったです。

どの家庭でもその家庭のやり方や、子育て方針は違うので、尊重するために私はママ友さんや先輩ママさんたちの子育てについては、見習えるところは見習いましたが、共感できないことについては敢えて言及するようなことはしませんでした。(当たり前かと思いますが)

ただ、私が若すぎたのか、先輩ママさんたちからは、離婚の経緯や子育てについて共感できない部分があると、不要なアドバイスをもらうこともありました。

そして気がついたのですが、大抵他の家庭に言及するようなママさんたちは、自分自身が満たされていない家庭生活を送っている方がほとんどでした。

子育てに関しては、個人的に教育自体に興味があったので、本をたくさん読んでいたのと、亡き母の子育て法や保育園の先生方の教えに共感できる部分がたくさんあったので、紆余曲折ながらも、自分の軸がブレることなく進んできました。

もし散々悩んで離婚を選択し、そしてその選択が間違ったものではないと自分で納得しているにも関わらず、自分の決断に至るまでの深い部分を知らずに、変なアドバイスをしてくる方には注意が必要です。これは、自分が逆の立場になる場合もあり得るので、自戒も込めて書いておきます。

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